美食学研究報告

日本料理の次世代への継承と、更なる発展。日本料理を未来に繋ぐ。

日本料理の世界の「厳しい」「辛い」とパワハラは全く別の問題

スポンサーリンク

「厳しい」ということパワハラとは違います

料理の世界で働くことは「修行」などとも形容されます。特に和食の板前なんていうと、どうしても「厳しい」とか「辛い」というイメージがついて回ります。他のフレンチや中華の料理の仕事をしている人に話を聞いてみても、似たような環境なんですが、何故か和食だけが不当に厳しいというイメージが世間に浸透しているように思います。笑

確かにキツイ部分もあるかと思います。私が以前に働いていた店は、慢性的に人手不足で、繁忙期になると1日に20時間を6日連続ぐらい仕事をしていたこともあります。みんなで店の客室で仮眠して、すぐ朝が来るみたいな環境です。お店にもよりますが、怒鳴られたり、殴られたりといったこともあります。仕事の失敗をした若手に手を出してクビになった料理長、という話はよく聞きますし、もっと酷い店だとクビにせずにそのままなんてこともあります。
そういうパワハラみたいなことをする人というのは論外です。「厳しい」という言葉の意味の本質を理解してないのでしょう。そういう人間がトップにいる店は早く辞めたほうがいいでしょう。

「厳しい」ことにも意味がある

しかし、料理の世界が厳しいというのは仕方ない面があるのではないかと思います。理由は、食べるものを扱う仕事だからです。

どこかに勤めに出たり、あるいは自分で商売したりして、お金を稼ぎ、自分と家族を養ったり、納税したりすること、つまり社会人として一般的な生活をすることを「飯を食っていく」と表現することがあります。「食べること」というのは「生きること」と同義です。
食に関わる仕事というのは、極端かもしれませんが、お客様の命を預かるぐらいの責任があります。
1人何万円もするような料理を1年の内に何回食べに行くでしょうか。そういうレベルの店で働く人間が妥協をしてはいけないです。
北大路魯山人は「料理に「美」を求めぬ人は、当てがい扶持に満足する犬猫の類と同じだ」という言葉を残しています。
出来ることなら、志を高く持ち、舌の先だけでなく、五感の全てを鍛え、人間として高くありたいと思います。

そういう決意というのが、本来の厳しさというものでないでしょうか。厳しい指導の先には人間としての修養がなければいけません。決して暴力や恫喝で従わせることが厳しさでは無いのです。そういう教え方しかできない人は少し料理が出来るようになったとしても、何も身について無いのと同じでないでしょうか。

料理王国―春夏秋冬 (中公文庫)

料理王国―春夏秋冬 (中公文庫)